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戦争での体験をお話いただける方を、心よりお待ちしております。
〜最後にもっとも重要なことで、ゴールデンルールを守る。
ゴールデンルールとは自分にしてほしくないことは、他人にも絶対にしないということだ。〜
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語り部:カリト・ロサスさん
(Carlito Rosas)
性別:男性
お会いした日:2003年8月15日
年齢:69歳
生年月日:1934年2月
現住所:パンガシナン州 スワル
戦時中の住所:パンガシナン州 スワル
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このピースセミナーは第3回フィリピンスタディツアーのプログラムの一環として行なわれた。
スワル村の第二次世界大戦日本戦の遭遇者カリトロサスさん(69)が、
当時の戦争模様を私達に話し、 「戦争とはなにか」「平和とは何か」「戦争を避けることは可能か」
を考える機会を与えてくれた貴重なセミナーであった。
スワル村での出来事
第二次世界大戦(1941〜1945)が始まると同時に日本軍はフィリピンを占領し始めた。
日本軍が、カリトロサスさんの住むスワル村を占領し始めたのは、1941年だった。
当時彼は7歳。日本軍はリンガエン湾からスワル村に上陸し、瞬く間に村を占領下においた。
日本軍は現在のスワル小学校の辺りに、兵隊の住むキャンプ「ミリタリーガリソン」を作り、
そこを拠点に生活、戦争時の備えをした。
スワル村のミリタリーソンで生活した日本兵は約200人。それだけ多くの日本兵が生活していくために、
彼らは毎日のように村人の家からにわとり、米、パパイヤなどの食料品を
奪うようにして持ち帰った。
なかには村の稲作に重要なカラバオ(角のついた水牛)に奪った米をくくりつけて、
カラバオごと持って帰ってしまったこともあり、田植えの時期に苗を植えられない村人もいた。
食料を奪いに来た日本兵は、1人の場合や5人くらいのチームになってくることも多かったようだ。
村人達は、日本兵が食料調達に来ると山奥へ隠れた。
なぜなら、もし抵抗するものなら、日本兵から平手で殴られたり、銃剣で殴られたりなどという
ひどい暴力を避けるためだった。
また、食料に関してだけでなく、ミリタリーソンで生活するために、
日本兵は洗濯、炊事に関しても村人に過酷な労働を強いた。
特にそれは村の女性が連れてこられた。そのように連れてこられた若い女性の中には、
日本兵にレイプされる女性も数多くいた。この事件に関しては、あいまいな事実が多いため、
実際どのようなことがあったのか分からないままである。
それは被害に遭った女性が語らない、語れない事情があるためである
男性は地元のゲリラ兵として日本軍と戦おうとした。ゲリラ兵の男性は山の中に潜んでいた。
日本兵は山にゲリラ兵を探しに行った。そして山中にいた男性を捕まえては、
ひどい拷問をかけゲリラ兵かどうか白状させた。
ある村人には大量の水を飲ませ、仰向けにさせ、
水で膨れている腹を足で踏みつけるという拷問をかけた。
厳しい拷問の中で死者も多数出た。
なぜ日本兵が山中に隠れていた男性、ゲリラ兵にひどい拷問をかけたかというと、
フィリピン人のガルシア大尉という軍人がゲリラ兵を組織し、日本軍と戦おうとしたため、
日本軍はガルシア大尉の居場所や組織について聞き出そうとしたからだ。
1945年アメリカ軍がリンガエン湾から上陸。日本軍との戦いが始まった。
アメリカ軍が上陸したとき、スワルの村人は1ヶ月ほど山に隠れていた。
日本軍はアメリカの上陸に備えて、村人にガリソンという隠れ穴を作らせていた。
ガリソンは山の地面に掘った人が十分には入れるくらいの穴だった。
その中で人(日本兵)が隠れながら、アメリカ軍の様子を窺ったり、
武器の隠し場所にするなどしていた。また死体の一時保管場所でもあった。
ガリソンは山のあちこちに作られたようだ。
日本兵はガリソンどうしを繋ぐためトンネルも作ろうとしたのだが、
それはアメリカ軍の接近によって断念された。
日本兵は占領時村人たちを徹底的に管理した。まず日本語教育を行なった。
また日本風のお辞儀を訓練させ、日本兵に会うたびにお辞儀をするようにさせた。
上手くお辞儀ができないと、殴るなどの暴力をふるうこともあった。
そして村人の行動を厳しく管理し、盗みなどの行為を厳しく罰した。
バタアン死の行進について
フィリピン兵やアメリカ人捕虜を、真夏のバタアン半島から幾日もかけて歩かせた
バタアン死の行進は大変過酷なものだった。
語り手カリトロサスさんの叔父リ(1972没)もその行進にいたひとりだった。
彼は2日2晩歩いた後、奇跡的に脱走に成功し、1944年スワル村に帰ってきた。
行進のなかで日本兵は、途中衰弱して倒れた者は銃剣などで殺してしまったという。
コレヒドール島について
マニラ湾の入り口にコレヒドール島という小さな島がある。
そこは戦争時アメリカ軍とフィリピン軍は駐留していた。マッカーサー総督もいた要の島である。
現在その島は戦争の遺物(戦闘機や戦車など)が残された観光地となっている。
しかしその島を訪れる日本人は少ないそうだ。
Extra Education by Japanese Arm
日本語政策が行なわれた時、実際に教えてくれたのはフィリピン人教師だった。
週に1,2回日本語教育があり、数を数えたり、日本語の歌を歌うなどした。
(ジュナの質問)
しかしアメリカ軍が上陸してから、日本語教育から解放され、教育も元に戻った。
質問
Q カリトロサスさんのご両親について
A 彼の両親は普通の農家を営んでいた。米を作ったり、魚を捕ったりして暮らしていた。
Q 1945年にアメリカ軍が上陸した時、日本兵はどうしたのか?
A 戦わずに逃げた。Baguioという街が日本軍の集合地だった。
Q 戦争被害に遭った人の中には、後遺症がある人もいるが(日本政府から)
何らかの補償はあったの?
A 保障はなかったが、あるべきだった。
またフィリピン政府は日本政府から補償をもらったにも関わらず、他のことに使ってしまった。
Q 戦後日本人に会うことはあったのか?そのときの日本人に対する感情は?
A 1964年に戦後初めて日本人に会った。彼はハラさんといい、とてもフレンドリーな人で
水産関係の職業についている人だった。彼はフィリピンに養殖の技術を教えに来た。
それまでは日本人に対する恐怖があったが、彼から技術を学ぶ過程で
日本人に対する印象を変えていった。
Q 当時の日本の教育について反日感情があったのか?
A ただ怖いという感情しかなかった。おじぎをしないと平手で殴られるので。
Q 日本語は強要させられたのか?
A 週に1,2度日本語教育があり、数を数えたり、歌を歌ったりした。
そこまで厳しい強要はなかったようだ。
Q 「開放の日(終戦記念日のような)」はあるのか?
A そこまで強く意識したことはないが、1946年7月4日はフィリピン・アメリカフレンドシップデー
となっている。
また戦前1898年6月12日はスペインからの独立宣言をした日になっている。
4月9日はバタアン死の行進が始まった日として、国民が記憶している。
またこの日は大統領がスピーチをするなどの行事もある。
Q 今の子どもたちが戦争について学ぶことはあるのか?
A 今はそんなに強調されていない。
50年以上経っている今、日本兵の残虐さを子ども達に教えて、
悪いイメージを植え付けるわけにもいかない。
しかし小学校4,5,6年生にもなると戦争時に起こったことを教えられたりする。
Q カリトロサスさん自身が考える、平和(戦争を避ける)とは?
A お互いに愛し合うこと。
他の人に残酷なことをしない。
他国、他人を尊重する。
ちょっとした小競り合いでけんかになるのではなく、フレンドリーな解決を。
最後にもっとも重要なことで、ゴールデンルールを守る。
ゴールデンルールとは自分にしてほしくないことは、他人にも絶対にしないということだ。
語り手カリトロサスさんについて
1934年2月生まれ。第二次世界大戦がはじまった時、彼は7歳小学1年生だった。当時彼のご両親は農家として村で米を作り、魚を採るなどして生活していた、ごく普通のスワル村の村人だった。彼の叔父、リゴリオスさん(1972没)は戦争時兵隊であり、「バタアン死の行進」で2日2晩歩いた経緯がある。カリトロサスさんは現在大学で科学を教えている。彼はテキサス州にいたこともあり、英語が堪能である。
この日、話をしてくれたカリトロサスさんは終始穏やかな表情で、時折笑顔も見せてくれた。彼が話の中、ときどき見せるおじぎなどのパフォーマンスは、私達日本人の目から見てほんとうにきれいなもので、当時の日本兵が厳しく身につけさせたものだと感じた。
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