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戦争での体験をお話いただける方を、心よりお待ちしております。
〜自分達は何をしているのか分からなかったためただ笑うしかなかった。〜
〜日本がフィリピンに酷いことをしたという事を知ってほしい。〜
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語り部:Felisemau Untalasco Dulature
2003年8月1日
年齢:73歳
住所:パンガシナン州スワル
バランガイ・バキワン(Baquioen)
7〜10歳の時に戦争を体験
戦時中住所:ラ・ウニオン州
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教育
日本の言葉や歌を強要され、日本についての授業を週2回受けさせられた。
そこでは日本語で名前を書かされた。先生はフィリピン人で日本語が分かったが、
自分達は何をしているのか分からなかったためただ笑うしかなかった。
IDとオオサカさん
ID は女の子のみに発行された。
それはフィリピンのゲリラではないことを証明するための身分証であった。
しかし男の子は幼い子でも発行されることはなかった。
IDを発行されていない人は日本兵にゲリラと間違われ、
見つかると殺されてしまうためボロの木(竹のような木)の間に隠れ住んでいた。
ボロの木の側には湧き水があり水は確保できていた。
IDを発行したのは日本兵のオオサカさんという人だった。
彼は残虐な日本兵が多い中フィリピン人一人一人に日本兵に何かされていないか聞いてまわっていた。
フィリピン人の立場に立って親身になってくれたので彼女は心から感謝していて
今でもオオサカという名前を忘れることが出来ない。
家族
9人家族で4男5女の5番目の子どもだった。家は農家で母は主婦だった。
家族はブアンという町の小学校に集まって住んでいた。
このような人達は日本兵からIDをもらっていて見つかっても殺されはしないが、
いつも怯えながら生活していた。
父は体に障害があり体も小さかったためフィリピン兵として徴兵されることもなく
日本兵に罵声を浴びせられることはあっても捕まることはなかった。
しかし兄は日本兵に見つかりサンタモニカに連れて行かれた。
手を縛られたりたくさんの水を飲まされた上でお腹を蹴り上げられるなどの暴行を受けた。
しかし移動中、隙をついて近くの養殖場に飛び込み逃げることが出来た。
家に帰るまでの道程は昼間は日本兵に見つかりやすいため、
夜になるのを待って移動し無事に帰ることができて家族全員生き残ることが出来た。
これはラ・ウニオン州では大変珍しいことであった。
日本兵がしたこと
日本兵は銃剣を使用し、ゲリラはボロ(鉈のようなもの)を使用していた。
初めは日本兵はゲリラに対して攻撃をしていたがアメリカ軍の進入により日本兵は怯え態度が変わり
民間人までをも無差別に攻撃するようになった。
何もしていないフィリピン人に暴力を振るい女性を見つけるとレイプをし、
その後銃剣で刺し殺したりもした。健康な男性は手足を縛って連行した。
彼女にとって日本兵は脅威の存在であり日本兵を見ると走って逃げ、隠れるのに必死だった。
彼女は日本兵が早く帰って行き戦争が早く終わることを願っていた。
戦争が終わった時にはみんなで喜びを噛み締めていた。
質問
Q 次の世代に一番伝えたいことは何ですか?
A 戦争が再び繰り返されないように戦争によって多くの人が亡くなったという事を伝えていきたい。
今回自分の体験で良ければ話したいと思い今回のセミナーに参加しました。
Q 今でも日本人を見ると当時のことを思い出して日本人を憎みますか?
A 昔は日本人は酷いことをする存在であったが今は優しく接してくれるので
その人達とは自分の中で区別をしている。
Q 自分にとって平和とは何ですか?
A 戦争のないこと。すべての人が友達であること。平和は私達の心から来るもの。
Q これからの日本に期待することは何ですか?
A 日本がフィリピンに酷いことをしたという事を知ってほしい。特に若い人
に知ってもらい、親切な優しい人になってほしいと願っている。
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