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ピースセミナー
フィリピンと日本戦争体験者 100人の記憶

戦争での体験をお話いただける方を、心よりお待ちしております。

〜ものをあげている限り、暴力を振るうことはないとわかったので、そうしていた。
だから、自分はベリーハッピーだった。〜

語り部:Feodorico Dulatre
(フィオドリコ・ドラトレ)
インタビュー日:8月1日(金) 午後1時〜3時(25回キャンプ)
年齢:82歳
生年月日:1920年9月18日
現住所:パンガシナン州スワル
バランガイ・バキワン(Baquioen)

戦時中住所:パンガシナン州スワル
バランガイ・バキワン(Baquioen)

1920年9月18日生まれ。82歳。戦争開始当時、ココナッツ畑で働く農夫だった。
スワルの村に住んでいた。 ココナツ畑にいたときに5人の日本兵がやってきて、
ココナツを登って取ってくるように命令された。
ある時出合った日本兵は、1ペソのコインをたくさん詰めたドラムを転がしていた。
そのような日本兵が村(バランガイ)に来たのをを見た。
オジサンのグレゴリオ・ロサスさんと一緒にそのような日本兵を目撃した。

当時私は、村のワカガシラ(1st counsil)のような役目をしていた。
日本兵は、トラックに炊事道具をたくさん積んで、近郊のアラミノスや、ダグーパンからスワルにやってきて、 その後パンパンガへ移動していったという。
そののちパンパンガから同じ日本兵が帰ってきたときに
「ガルシア大佐(フィリピン人の大佐か)を知らないか」と質問された。
本当に知らなかったので、「知らない」と答えると日本兵は帰っていたが、翌日またやってきて同じ質問をしていた。
男性3名、女性1名(女:同じ日ピースセミナーの語り部として来ていた)のうち、男性1名は日本兵に捕まり、拷問を受けた。
男性のうち一人は当時75歳の高齢だったが、水を無理矢理飲まされる拷問を、
女性と一緒に受けた。1ガロンを一気に飲ませるような拷問だった。
男性の方は高齢だったため、半分ほどしか飲めなかった。
飲めなくなると、叩かれたり、水で一杯になったおなかを踏んだりされた。
 
日本兵の宿営地は山の向こうにあり、夜は帰っていったが、
昼間は何人かでパトロールに村を回っていた。
マッカーサーは戦時中にもこのあたりを訪ね、I shall returnといって帰っていき、
その8ヶ月から11ヶ月後にまた約束通り帰ってきた。戦争のいつ頃だったかは覚えていないが。
戦争も終わりに近づいた頃、二人の日本兵(GeneralとCaptenといっていたので、
下士官か。名前は覚えていないとのこと)を捕まえた。
捕まえた日本兵は、投降しようとしていたようだった。
捕まえるときには、神さまに祈ったあと、思い切って両腕でしっかりと抱きかかえるように捕らえた。
投降しようとしていたようだったが、武器を体中につけていたので、怖かったのだ。
捕まえた二人の日本兵は、スワルに基地を作っていたアメリカ軍に引き渡した。
その基地には、飛行艇が50隻以上停泊していた。
日本兵を引き渡したとき、アメリカ兵からパン(パンデサル)と長ズボンをもらった
(このあたり嬉しそうだった。アメリカ兵は親切だったとも言っていた。
日本兵とアメリカ兵を比べるようなことはインタビュー中何度かあった(by キャンパーの結)。
 
戦争が終わったのを知ったのは、飛行機からまかれたビラをみてだった。
(このあたりVictoryとうい言葉をよく使っていた。)
ナギリアンの歩兵23(部隊?)に志願したかったが、既に募集が締め切られていて、
入ることができなかった(そして残念だ、と言った)。
志願した理由は、当時の月給で5000ペソがもらえたから。
(ちなみに、当時農夫をしていて、得られる米が、一回の収穫で、45カバン(1カバン50キロ)の二期作。
1キロが25ペソで売ることができたというので、1期56250ペソ分の米がとれる。
2期で112500ペソ分の米がとれた計算になるが、どの程度の現金収入があったのか実際には不明)。
 
当時の生活は、農家であったので、食べ物は十分にあった。お米があり、海にでると魚が捕れた。
家はいまCFF「子どもの家」が立っている場所の近くにあり、家のすぐ近くの山には滝があり、
そこで水浴びなどもすることができた。訪ねてきた日本兵2人に夕ご飯をごちそうしたこともある。
10台のトラックで日本人がやってきたときも、鶏をよこせといわれたが、その時も渡した。
どんなときでも日本兵に、よこせといわれたら、家にある食べ物は渡していた。
戦闘が終わって汚れて帰ってきた日本人にTシャツをあげたこともある。
 
他の村人達には食料で苦労した人もいたが、ドラトレファミリーはそれで苦しむことはなかった。
ものをあげている限り、暴力を振るうことはないとわかったので、そうしていた。
だから、自分はベリーハッピーだった。
 
スワルの町にでると市があり、フィリピン人や日本人を対象に物売りが戦時中でもでていた。
町にでたとき、町に日本兵はたくさんいたが、自分は日本兵を恐れなかった。
普段食料などをタダで渡していて日本人の中にも自分のことは知られていたので、
危害は加えられないと思っていたからだ。
市場で日本兵がものを買うときには、ジャパニーズガバメントと印刷されたペソ(軍票) を使って取り引きしていた。
(インタビュー後、フィリピン人キャンパーのクリスに軍票の話をしたところ、
祖母がたくさんもっていて、自分が子どもの時に遊び道具にして全て汚したりなくしたり
破れたりしてしまったといっていた。
おみやげとしてマニラで売られていることを告げると、もったいないことをしたと)。
 
当時の家族は、自分と、妻(96年に死亡)、
息子が、3人。
娘が3人。(そのうち1人は戦後、子どもを出産した後に出血が止まらず死んでしまった。生まれた娘は結婚して、いまは香港に住んでいる)。
現在、18人のマゴをもつおじいちゃんである。
戦争の時に将来何を望んでいたか聞いたところ、特に何も展望はもっていなかったとのこと。
軍隊にはいって給料をもらいたいということは思っていたが。
特に戦争が早く終わって欲しいなどの思いは強くはもっていなかった。
彼の親戚の中で、日本兵に殺された人はいなかった。
食料を渡すときに会話があったかという質問については、会話があり、
喜んで「サンキュー」といいながら頬に接吻をする日本兵もいたという。
笑いながら実演して見せてくれた。
戦争について誰かに話したことがあるかという問いについては、
子どもや親戚にしたことがあると答えた。

●キャンパー康二の質問
日本の教育ではフィリピンの戦争についてあまり教えないがそのことについてどう思うかを聞いた。
それについては、フィリピンキャンパーのジョンマーク(21歳)がこうこたえた。
「日本のそのような状況について、怒ったり批判したりすることはない。なぜなら、自分たちは新しい世代で、 戦争が起きたときそこにいなかった存在だから」。
ただし、この意見はフィリピン人としては一般的ではないともいっていた。
今回が3回目の参加の彼に、その意見を持つようになるのにワークキャンプの影響があったのかを聞いたところ、
キャンプの影響はあると答えた。
キャンプに参加して日本人の若者の考えも知ったし、ピースセミナーなどでフィリピンの過去のことも知って、以前もっていた、日本人は信用できないという思いはなくなったという。

(ゆかりの質問:軍票の分を戦後補償した国があったと思ったが?)

●自分にとって平和とは何ですか?

康二:このセミナーを聞く前から、平和について色々事前研修などで考える事もしたのだけれど、
答えはでていなかった。今日の話の中で、ジョンマークがいってくれた中で、
ワークキャンプの参加前と参加後で日本人に対する考え方が変わってきたといっていた。
ワークキャンプとか国際交流を通じていくことの延長が、長い時間がかかるかもしれないけれど、
平和につながるかも知れない。そんな感じがした。

奈津美:平和とは、互いの心の通い合いだと思う。言葉であったり、ジェスチャーであったり、
表情であったり、通じ合うこと。

満和子:世界中の人が相互に宗教、民族等の違いを受け入れ、
人間として尊重しあえるための基盤がととのっている世界。国境を強く意識しなくてもいい、
個人を基盤とするような世界が、平和な世界。

結:全ての人たちが人間らしく幸せにいきられること。
ゆかり:人々が互いに愛し支え合い、過ちを許すことができるし、
自分のもっていることを他人と共有することができる世界。

●次の世代にあなたが一番伝えたいことは何ですか

康二:日本とフィリピン人のいまの関係や、戦争に対していろんな意見があるということを伝えたい。
奈津美:コミュニケーションをとることによって、まわりがどう変わるか、どうなるか、
世界がどう広がるか、そういうことを考えるということを教えていきたい。

満和子:戦争がその国の人たちに与える影響(戦時・戦後・次世代に至るまで)の平和のもろさ。

結:人の歴史にあった過去のことを話して伝えていくこと。

ゆかり:自分が幸せだと思う生き方をして、周りの人と共に幸せになること。

今までのご紹介した体験者の方々
1.Mr.Carlito Rosas 2.Caridad Flores 3.Felisemau Untalasco Dulature 4.Feodorico Dulatre 5.マリア・バンソン
         

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